先日の記事でも書いたように私はブラトップが嫌いである。この私が云うブラトップとは一言で云うと女性が身に着けるブラジャーの代替品のようなものだ。他にブラトップがあるかは知らない。
私はこのブラトップの存在に憤りを覚えている。この世から無くなってしまえばいい――本当にそう思っている程だ。ブラトップは滅んでいい。
勿論女性の立場からすればブラトップは非常に機能性に優れており便利なものであるだろう。私は未だかつて実際に身に着けた事が無いため想像の域をでないが、ブラジャーに比べて「楽」であろう事は想像に容易い。
パッドの装備、形成のし易さ、ワイヤーレス、肌着感覚で着れる…など。ブラジャーと比較すると利便性の高さは窺い知れる。その利便性から「楽」という言葉が最も適切なのだろう。しかし。
表裏一体が世の常である。
表裏一体はあらゆるもの――万物にそれは存在し、光があれば影もあり、出会えた喜びにはいずれ来たる別れの悲しみも必ず存在する。表がある以上裏は必ずあるのだ。ブラトップも然りである。
ブラトップの利便性を表とするならば裏も存在する。利便性の裏で失ったもの――それは男性側の視覚の歓びを奪った事にある。ブラジャーの良さが殺されてしまっている。
ブラジャーには夢がある。
普段見えないからこその神々しさがそこに存在し、男はその見えないものを見ようとする。だが見えない。だが可能であれば見えたい。見たいではなく見えたい、である。不可抗力を主張したい。男はそのジレンマの狭間で生きている。
それは夏のブラチラにも適用される。女性の背中からうっすら見えるブラ紐を見てみぬフリをしながら「ふむ…グリーン系か…」などと自己満足に浸る。そこに厭らしい意味などなく、有るのは軽い色彩検定である。そんな絶対に見てはいけないというモラルと、理性とは裏腹に目が勝手に追ってしまう本能の狭間で生きている。
また、女性が屈んだ時に重力のお陰で垂れ下がったシャツと首の隙間が見えてしまいたいと思っている。「谷間が!ブラジャーが!見えるかもしれない!が見てはならない!!」とモラルが訴える。しかし目は理性とは裏腹に「うっかり見えてしまった方向で…」に持っていこうとする。やはり理性とは裏腹に目が勝手に追ってしまう本能の狭間で生きている。
男は「見ては行けない」と「うっかり見えてしまった事を悟られてはいけない」という2つの狭間で歓びと楽しみを見出しているのだ。そこに厭らしさはない。と思う。
それをブラトップは奪ってしまった。
ブラトップの肌に密着した着用感は女性に多くのメリットを与え、一方で我々男から視覚の歓びを奪った。余りにも無慈悲なデメリットである。
ブラトップが「メリットだらけ」という女性側の意見。これが男からすれば「デメリットだらけ」になるのだ。
なぜ男側の感情を汲み取れないのか。
そのような傲慢で自分勝手な考えは如何なものかと思うよ、ワタクシは。うん。
梅雨がもうすぐ明ける
本格的な夏がくる
ブラトップだらけの夏がくる
ブラトップは滅んでいい。
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