初見で、大阪の地名にある枚方や額田を正確に読める筈などないんです。
仮に初見で読めた人がいたとすれば、正直そちらの方がどうかしていると言っても過言ではないとすら思うほど。
何より、誰だって初めは知らない。
如何なる事も教えてもらう事や気付く事、学びがあって知識を深めてゆく。
知らない事は恥でなく、知らないまま放っておく事が恥ではないでしょうか。知識として得られればそれでいい。恥ずる事は何も無いんです。
だからもし鳴門金時の事を「なるもんきんじ」と読んでしまったとしても正確な読み方を教えてあげるべき場面なだけです。
次から「なるときんとき」と読めるようになれればそれでいい。「なるもんきんじ」と読んだ事に対して誰が笑えると言うのでしょうか。
ワタクシは、笑えます。
なるもんきんじですよ?
笑わないとか無理。
ただ、誤解はしないでいただきたく思います。
先程も述べた通り「なるもんきんじ」と読んでしまった事に対して可笑しく思う気持ちは微塵もありません。
ワタクシはただただ「なるもんきんじ」と云う偶発的に生まれた言葉の羅列がパンチラインとして成立させてしまった事に対して可笑しさを感じているのです。言葉が、ただただ強い。
なるもんきんじ。
平仮名の見た目の雰囲気、発音した時の語感、何より全体像から滲み出るダサさ。そのポテンシャルの高さたるや相当な部類のパワーワードと言えるでしょうよ。
では漢字の後ろに読み仮名を付けてみてはどうか
鳴門金時(なるもんきんじ)
人
人感、出ちゃってますよね?
ではいっそ人物と仮定してみてはどうか
鳴門金時は江戸時代末期に産まれ徳島藩の志士に憧れる生涯晴耕雨読を貫く凡夫であった。倒幕・明治維新に一切関わる事もなく、薩長同盟の際には締結された薩摩藩にも赴かず、徳島藩にて普段通り晴耕雨読の日々を過ごしたとされる。若い頃は「鬼の金時」の異名をもち、金時が近寄るだけで雀はたちまち逃げ出したという。また金時が生涯で読んだ書物は四万冊以上といわれている。
あぁ…
いいよ、きんじ…
何か大きな事をしてそうな雰囲気を醸し出しながら何もしていないきんじ。
どう鬼なのかも不明なきんじ。
その上、遠回しにやんわり雨男だったとディスられるきんじ。
いいよきんじ…
素敵な、素敵な、きんじ。
そんな事を考えてたら街中にある鳴門金時って表記を見るとついつい「なるもんきんじ」って読んでしまい、その度に一人でニヤニヤしているワタクシのキモさに勝てる人なんているのかしらん☆
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