その時、世界の動きが止まった気がした。
昼時、腹も減ったのでとある店舗のメニュー表を見た瞬間、私は固まった
「カツ丼:1,100円」
高い。
あまりにも、高い。
これはもう近年におかれる値上げとかそういうレベルじゃない。 私の財布の中身と、豚肉の値段が釣り合っていない。
私はいま、人生の岐路に立たされている。
目の前には二つの道がある。
一つは、欲望のままにカツ丼を頼むこと。
カツ丼。そう、それは人類が生み出した叡智、「完全なる調和」の具現化だ。
揚げたての衣が放つ香ばしい黄金の輝き。 それを優しく、しかし力強く抱擁する半熟卵の慈愛。 出汁の染みた白米は、さながら大地の恵みを凝縮した揺りかご。サクサクとトロトロ、動物性タンパク質と炭水化物が織りなす奇跡のアンサンブル。 これを摂取することは、もはや食事ではない。聖なる儀式なのだ。
だが、眼下には冷徹な現実がある。 1,100円。
この選択は疑う余地なく最高に幸せになれるが、午後の缶コーヒー代すら消え去る「破滅への道」だ。この聖杯を手に取るには、私の財政状況はあまりにも脆弱だ。
もう一つの選択は、隣にある「親子丼:850円」という戦略的撤退。
メインの豚を鶏に変えて我慢する。 世間はこれを「節約」と呼ぶだろうが、私の中では「敗北」に近い。しかし価格という圧倒的な合理性を兼ねたその選択も手段として決して間違いではないといえる。
ただ、ここで親子丼を選ぶのは賢明かもしれないが、当初に私の中にあった「カツ丼が食いたいんや!」という初期衝動を裏切ることになる。
ではどうする?
ここで第三の道、ひらめきの出番だ。
「鶏カツ丼:900円」
これだ。
これこそ最強の作戦じゃないか? 「カツ」というサクサク感はキープしつつ、肉を安い「鶏」にする。
親子丼では満たせない「揚げ物欲」を満たし、カツ丼より安価、なんなら「鶏だからヘルシー」という言い訳も立つ。
まさにいいとこ取りの、完全なる回答だ。
勝ったわ。 今日のランチ戦争、ワイの完全勝利や。
そう思って注文ボタンに指をかけた瞬間、私はハッとした。
「おまえ、ホンマにそれでええんか?」
私の中のもう一人の私が、問いかけてきたのだ。
豚が高いから鶏にする? カツ丼が高いから鶏カツ丼に逃げる?
それは「作戦」じゃない。都合の良い言葉で繕っただけの「逃げ」だ。 たかだか数百円の差にビビって、自分の食べたいものを曲げただけだ。
私はなんて芯のない男なんだ。 初志貫徹もできず、安価な代用品に飛びつき、それを「作戦勝ち」なんて誤魔化している。
情けない。 自分の根性のなさに、ガッカリだ。
そもそも「食事」とは何か? ただ腹を満たすだけか? 違う。 それは命への感謝であり、自分自身と向き合う崇高な時間だろ?
昔の日本人は、質素な食事の中に幸せを見つけてきたはずだ。 メザシに味噌汁。 一汁一菜。今の私たちは、贅沢に慣れすぎているんじゃないか? いま私がやるべきことは、欲望のままに揚げ物を貪ることじゃなく、忘れかけた日本人の心を取り戻すことなんじゃないか?
健康、節約、そして日本人の魂…。 これらを全部守るための食事とは――。
そんな折、隣の席の学生が店員に言った声が聞こえた。
「カツ丼大盛りで!」
チッ、このガキが。
私の中で何かが切れた。大切な、何かが切れた。
さっきまでの悩みは一瞬で消え、どす黒い感情が心を支配していく
カツ丼?あんなもん食って、何が嬉しいんだか。 豚を油で揚げて、さらに砂糖と醤油で煮込む? 正気じゃない。あんなのは暴力だろ。血管を詰まらせるための油の塊だ。 食欲を我慢できず、ただ口に快楽を詰め込むだけの行為。蛮行以外の何物でもない。 あんなものを平気で頼める人間は、きっとロクな大人にならない。 人として、品性のかけらもないクズの所業でしかないね。野蛮人め。
私は違う。 私は理性を持ち、心でメニューを選ぶ、選ばれた大人だ。
店員が近づいてくる。 私はなんの迷いもなく、澄み切った心で店員にこう告げた。
「あ。サバの味噌煮定食で」
私の選択は間違ってない。
サバの味噌煮を美味しくいただいた後、俺は700円を支払って店を出た。ご馳走様でした。


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