男は台所のコンロの前で
ただ一点を見つめて立ち尽くしている
手元には、薄切りにされた山盛りの玉ねぎ。 レシピ本には「飴色になるまでじっくり炒める(約40分)」という、さも当たり前かのように、しかし狂気に満ちた一文が躍っていた。
「…40分…だと…? 正気か…?」
40分あれば、ちょっとしたドラマなら1本観れる。洗濯物だって干せる。なんなら人生の重要な決断のひとつやふたつ下せるレベルの時間である。端的にいえば「いろんな事ができる時間」だ。
美味しいカレーを極めたい——。
その情熱に微塵も嘘はない。しかし、そのために貴重な余暇の大部分を、換気扇の下で玉ねぎとの対話に費やすことになる。
この「タイパ(タイムパフォーマンス)」という現代社会の至上命題に対し、カレー作りという行為が、今まさに私に真っ向から喧嘩を売ってきているではあるまいか。
私のカレーへの情熱は時短だの、レンジで加熱だの、そんな小手先の誤魔化しじゃ満足できない。しかしながら、正攻法でいけば人生が溶ける。
この矛盾に引き裂かれた私の脳内で、二つの対策が浮かんだ
1.「このまま玉ねぎの蒸気にまみれて、余生を全てカレーの完成に捧げるか」
それとも
2.「今すぐ国籍を捨て、本場インドの血肉として生まれ変わるか」
である。
後者一択である。
圧倒的後者一択である。
最短ルートは、それでしかない。
明日からターバンを巻いて出社し、同僚のランチボックスの中身に「スパイスのキレが甘いな」と無言の圧をかける。
デスクには常にターメリックの粉が舞い、キーボードの隙間からクミンが芽吹く。 そんな、社会的な信用をスパイスの香りと引き換えにする、毎日がガンジス川のようなターバン生活。
あまりに。
あまりに、失うものが大きい。
これではもう、一人の善良な市民としての生活を担保に、究極のコクを召喚しようとする禁忌の等価交換と呼ぶに相応しい。
そもそも「美味しい」とは、如何なる事なのか?
味覚なんてものは、その日の体調や、或るいは直前に吸った空気の質に左右されるような、極めて主観的で不安定なものであるにも関わらず、我々は「絶対的な正義」だと誤認している節がある。
コクがある? そのコクとやらの正体を、分子構造レベルで、あるいは哲学的な命題として説明できる奴がこの世に一人でもいるというのか。
さらに言えば「最短」という概念そのものも不明瞭であるといえる。
10分で完成させることが「最短」なのか、あるいは3日間寝かせて熟成の極みに達した、その瞬間こそを「最短のゴール」と定義するのか。
時間は相対的なものであり、私が玉ねぎを炒めている時、一方では玉ねぎもまた私を炒めている。 つまり、最短を目指せば目指すほど、我々は「カレー」という事象の地平線に吸い込まれ、永遠に完成しない「概念としての煮物」を虚空に作り続けているだけなのではないか?
……いる?
その哲学なのか思想なのか、いる?
今、腹減ってるワイにマジで、いる?
思考をこねくり回し、スパイスの宇宙を無様に漂流した結果、残ったのは空腹と、薄切りにされた玉ねぎ、そして「何も進んでいない」という冷酷な事実だけでした。
この論理的破綻が招く社会的リスクと、胃袋の空虚感の相関関係については、各自各々考察のほどよろしくお願いいたします。
もう限界です。
カレーの真の正解を探し求め、鍋の前で哲学する日々には、今この瞬間をもって終止符を打ちます
面倒くさい
全てが面倒くさい。いっそのこと、ワイがカレールゥそのものになれればいいのにと思っています。
どなたか、お手すきの方がおられたらワイを巨大な圧力鍋にブチ込んで、超高圧でどうぞ一気にやってください。
最終的にワイ自身がカレーという概念そのものに収束し、この世から「調理」という苦行が消滅すれば、それこそが真の「最短」であり「最高」の救済やと今は確信しております。
そして明日からは、福神漬けの気持ちで、静かに、でもスパイシーに余生を過ごそうと思います。


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